鈴木大拙  

「無心ということ」

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動

第四講 無心の完成    第五講 無心の生活 第六講 無心の体験

結語・・・無心と道・色即是空

第四講 無心の完成

極楽の実在性

無量寿経によれば仏陀が弟子の阿難に極楽を見せてやり、西方何十万億土に有ってそこで無量寿(阿弥陀)
の教えに従い念仏すれば極楽に行けると教えます。極楽往生の人は顔や姿態は端正で

美しく見えるが実態として捕まえる境が無いものです。極楽浄土も虚無、無極の国土です。

極楽と娑婆

仏陀は娑婆にいて極楽を見せ、無量寿経によると極楽ででも娑婆が映るという経文の言い回しは地球上が娑婆

で星の彼方に極楽が有るという相対的な存在を否定しているものです。

往生の意義

死んでから極楽へ行くことだけでは生きてて安心の境涯にいられないことになります。極楽にこちらが、こちら

に極楽が映るそれが無心の世界なのである往生するとは無心の世界に一旦飛び込むということである。

往生の因

往生要集は地獄の恐ろしいことを頻りに書きたてて、我らは罪業の身だからきっと地獄へ行くと恐怖を煽ります

この世の苦しみに耐え悪事をしないようにして死んでから極楽に行けるのを楽しみにしようと思わせるのです。

生きている内に極楽が有る事を実証されないと信仰決定心に揺らぎが出るものである。真宗の信者は死んでから

地獄へ行こうとも極楽へ行こうともどうでも良い、自分はお釈迦様の言うとおり信じ法然上人の持つ心の奥底に

共感していることに満足している人です

自然法(じねんほう)()と無心の世界

「自然」はおのずからそうであること。「法爾」はそれ自身の法則にのっとって、そのようになって

いることです。浄土真宗の親鸞は、自力をすて、如来の絶対他力にまかせ、ひたすら南無阿弥陀仏を

唱えるように説き、極楽へ往生する為に念仏するのではなく念仏すれば極楽に往生することが自然法

爾だとのべています

仏教の各宗派が自然法爾を唱えて共通なのはそこに「無心」の体験が有るからです。

自然法(じねんほう)()の端的

とり速く言えば、この世は仏の意思で作られたもので、何も無いところです、有ると思うのは

仏が解りやすくしているからです。

仏智不思議の世界

仏は皆を無上仏にしようとお誓いになりました。無上仏とは形がないと申しそれ故に自然

です。そこは無上涅槃で極楽なのです、形や義がない自然法爾の姿を弥陀仏と仮に名付け

て我らは意識したのですが解りやすく弥陀を光にして弥陀の光は極楽と認識するに至った

 

無心の完成の世界

極楽の鏡と娑婆の鏡が互いに映り合う事を機法一体と言います。念仏三昧は機法一体で映る有り難さのなかで自分の

行でなく阿弥陀仏の行を行じているのである、したがって念仏を唱える事で何かを利することを期待しては

いけない。三昧とは無心の意味で他力と解するものです。念仏を唱える人も最初は辛い事から離れたくて極楽往生を

願うのです。永ければ念仏がくせになります、ついには余念他念なく南無阿弥陀仏ばかりになれば無心の動きが見ら

れ不往にして阿弥陀仏と一体となります。苦楽を離れ無心無益の境地に至る事を自然悟道とも機法一体ともいう、

これが娑婆での宗教体験の極致である。

 

生死は仏のおん

仏陀は極楽に住むのは菩薩だと言い、彼らは無心故に住人たりえると述べています。道元禅師の「生死」の巻で生死は

仏のおん命と述べています。それは仏の心に入るすなわち命を全うするには、我が身をも心をも放ち忘れて仏の家に投

げ入れ仏の方よりのお呼びに従って行けとの教えに他なりません

 

浄躶々(じょうらら)のところ

「生地の白地で月日を送れ。さわりや濁る谷川の水、問う学ぶな、手出しをするな、これが誠の禅法じゃ程に、

見ぬが仏知らぬが神」何も知らずにいるというは見ざる聞かざる言わざるの三猿主義ですが耳を塞ぎながら聞かざ

ることなく目を閉じて見ざること無く口は閉じても語らぬこともないこれを無分別という。論理の世界ではないが事実

あるのです、その心境は天真爛漫、無念、無想、無心、清浄無垢(しょうじょうむく)の素裸の世界です。

 

光明の顕現

不思議の仏智からでた如来の誓いならば煩わしい計らいをせずまかせて即ち無心になれば如来の光明がさし出すにきま

っている、と真宗はいい禅宗では眼で見えるものばかりでなく自身の鼻舌身意からもまた皆光を放つと

言います。

 

剣法と無心

禅者は修行中の体験を表現するに「剣を交えて闘うときは避ける心と方策を用いない」といいます。剣法の名人

山岡鉄舟の剣の極意としての悟りの表現でもあります。沢庵和尚が柳生但馬守に与えた書物で同様の言葉に添えて

「無刀の刀」の心を説いています。曰く、計らいの心が動くとそこに隙ができてしまう、見ても心に止めずそのままつけ

入り向こうの太刀に取り付けば還って向こうを斬る刀となる。これは無心の状態と他なりません。

 

禅の活用と日支印の特色

インドは想像的光明に照りわたり非常に華やかなのですがその仏教が支那に行くと実質的で日常の営みのなかから経典

より光明を掴もうとする支那仏教になり、禅の形で日本に伝わってきました。支那で座禅をするのは学問をする人で儒者

が多く、影響を多く受けながらも禅を悪罵します、武人で座禅をする人はほとんどいません。日本では武人ばかりでなく

芸術一般にも禅は影響を与えています又儒者は仏教から離れてしまいます。

 

非論理の徹底

仏教では無心の境地を得たものはこれを広く他人にも教えなければなりません、これを言葉や文字で表すのは難しく論理的

に説明することは不可能なので禅宗においての問答は逆説で問い直しおたり、矛盾した言い表し方を

します。

 

矛盾は矛盾に非ず

文字のうえからは全く矛盾して相容れない概念の羅列ですが浄躶々(じょうらら)の処にいて自分が他人がという対立の境地を没却

すれば矛盾が矛盾でなくなる不思議がわかってきます。

無分別の境を通して

見て見えず、聞いて聞こえずと分別感覚の世界だけにいては、その世界の真実にふれることはできません。無心、

無分別、浄躶々は虚です。しかし虚室の窓の下でボンヤリ暮らすのではなく、分別の世界に飛び出なくてはなりません。

無分別だけを離してみるとこの無分別は分別中の一概念に堕ちてしまいます。季節のめぐりのように絶対価値の世界には

美醜善悪がついてまわり、反省批判是非の世界でもあるのですがこの分別の世界にのみ彷徨していてはならないのです。

 

無心と往生と悟徹

計らいがない、こんな言葉が本当に出てくるには心の底の心というか或いはその底から抜け出た心の外の心、これが無心なのです。

真宗では仏の誓いとも往生とも道元禅師の言葉でいえば仏の御命とも悟徹ともいうものです。

 

梅巌の心学と無心

徳川時代の末ごろに流行した心学の祖「石田梅厳」は庶民階級のための講座をひらき学問、文学、思想を平易に説いた。神儒仏

にかたよらず封建時代相応の道徳観も多分に盛られていますが中には深き宗教的体験のひらめきが窺える処が有ります。

孔子や孟子の性善で言うところの善とは「万物、無心なれども生々して古今違わず其の生と生をつないでいるものを善と云う」

と石田梅厳は述べている

 

堵庵の思案なしと無心

梅厳の高弟で10年師事し、さらに修養を積んで40歳を過ぎてから講席を設け心学の第二祖として活躍をしました。

中心の思想は本心と私案(思案)を分けて本心を的確に把握せしめんとする処に有ります。私案は自力の

はからいで、本心は水の流れるが如く無心の境地と説きます。無心より絶対他力を獲得することが中々難しく、盤珪和尚の法語

や孔子の性善を解説しながら弟子を導きます。

 

心学と禅

心学は思想だけの学問でなく体験を旨とし文字学問の方は第二義です。総べて経書は聖人の心なり、其の心を知れば書の意味は

おのずと解かるのである。心を知るには無我の境地、無心でなければと、この点で禅宗とその帰する処を一つにしています。

酒脱自在

酒や宗教には自然の本性に引き戻す薬剤性というべきものが有る。分別意識の中心である「自我」の一念が多くの禍の種である。

これに縛られて自由を失うのが我らの日常の生活です。「我」執を悟りによって取り除けば

鳥や魚の如くなんら繋縛を受けず、情謂妄想、分別計較の世界から出て無我無心、無念無想の天真仏となることができる。