鈴木大拙   「無心ということ」

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動 第四講 無心の完成

第五講 無心の生活 第六講 無心の体験 結語・・・無心と道・色即是空

第二講 無心の探究

三種の無心(心理学的・倫理学的・宗教学的)

*無心の心を心理学的に霊魂とみなすのが西洋の学者に多く、仏教を無霊魂を唱える宗教として排撃する傾向がある。

*道徳的倫理的に自分をとらえて離れない自我を心と言い、否定することを無心と言う。

*宗教的に心は神にまかせるのまかせの意です、無心とは絶対受動・他力三昧、言いかえれば神の前に自分を絶対的に 没入することです。

無我と無責任

宗教的に無我とは自分を無くし無心とは他力に身を委ねることです。 我がないということを西洋学者は人格、道徳、を関知せず無責任者と

みなします、 宗教的にも無我とは実際に無責任というようなところがあるのです。

最高の体験

倫理的にも哲学的にも、何から見ても人間最後の帰着、最高の体験は宗教的無心というとこに落ち着く傾向を持ってい ます。

理屈の上でなく自分を棄てられてしまう時があります、その体験をもとにした実生涯の話してまいります、宗教 は決して険呑ではありません。

心身脱落

道元禅師が支那で師事した天童山住持の如浄禅師が道元の体験を是認したか道元の言葉「身心脱落、脱落身心」道元の 造語であり誰かが

解釈すればそれは理屈でしかありません。最高の体験をしたとの思い、つぶやきとでも解釈すべき語 です。もう一つ、「お前は支那で何を学んで来

たか」と問われ道元は「取り立てて言うことはないが柔軟心を得た」と 答えた。身心脱落は空ではありません、其処では何でも入れていく包容的な

柔軟心が自然と手に入るのです。柔軟心は 仏の教えのままにと解して、そこに無心という考え方を持って行かないといけない。

「心無心」「心非心」

無心という概念の発達経路について述べてみたい。インドから出ている考えだが特有の言い方が有る。般若経にも多く 見られるが否定の連発です、

「心は心に非ず是れ心」と言うように心という文字に論理的意味づけが残っているので自家 撞着と思われてしまうのです。分けることができないので

否定し、在るがままにこれを肯定する。「身心脱落、脱落身心」 と言った道元の心の使い方は宗教的に今日的である

無住無所得

無心を論理を離れて現そうと努力の結果が無住です、無所得は不可得(得るべからず)とは少し違う。無住ということは 無所得です。時間と空間

に制限されてとどまることが住です。般若経に“応(まさ)に住する所なくしてその心を生ずべし” と金剛経に有ります、生ずる心とは無心の心です。

そして心は絶対の他者の動くままに動くことです。効用、所有。功徳さ えも自分の意思でなせば手柄とか結果がついて無住無所得たりえない

現代と無住

思想 効用、功徳、能率、効能という言葉は近代生活と同意義に使われ全く宗教と相反している。今は宗教が窒息している時だが 出るときは忽

然として現れ抑えつけてはおけないようになる。無心の世界はそれを一つ抜けるところと知っている。

達磨の「無心論」

無心の解釈はインドの般若から支那にわたり趣がかわった、そこで書いた達磨の無心論は日本での禅宗を系統樹てることに なった。問答集

弟子:和尚は有心か、無心か   和尚:答えて曰く、無心

弟子:見聞覚知か無心の者か見分けるには  和尚:無心だから見聞覚知し能く見聞覚知すれば無心を知る  

弟子:無心でどうして見聞覚知できるのか 和尚:われ無心なれど能く見聞覚知を知る

弟子:見聞覚知すなわち有心なのに無と称するのか 和尚:見るに例えれば見えてはいるが見てはいない、見てはいるが見 えてはいない。すべて

これ無心というものである。

弟子:無心の心とは  和尚:心には形も所在もないのでこだわりようがない、それで無心ということがわかる

弟子:この世の一切に無心であれば罪とか福がなくなるのでは、衆生は六趣に輪廻して生死不断と矛盾しないのか   和尚:衆生は心に迷いが

生じ易く無心のなかにおいてもみだりに種々の業を作り捉われて有心なす、その為に六趣に輪廻 せしめられ生死不断を致すのである。こんな衆生

でも大善知識に遇うて座禅することを習って無心を覚悟すれば一切の罪は 滅びるのである。

弟子:愚昧故に納得しきれないところが有ります。誰もが持つ六根が反応するところに言語があり他人や自分を救う行いを するのだけども、そこには

煩悩生死 菩提涅槃、ありということになるがこの施し行いも無心といえるのでしょうか 和尚 :それはみな無心です。如来が煩悩菩提 生死涅槃

を説くのは衆生が妄りに有心にとらわれるからで、無心と覚えれば一切 の煩悩菩提 生死涅槃はなくなり、それらは不可得なのである。

弟子:不可得なのに過去の諸仏は皆、さとりを得たと言うがそれでよいのか  和尚:それは俗世間での文字の上での言葉 である。諸仏や如来は

不可得をもって得とすると言っている

弟子:無心とは木石と同じことなのでしょうか  和尚:無心の心は、弾かなくても奏でる鼓のように衆生を教化してしま うものである。木石との違いは

真心でありすなわち無心である。

弟子:どのような修行をすべきなのでしょうか  和尚:すべてにおいて無心を悟ろうとすることの他に何もない。無心が わかれば究極の悟りである。

弟子はここで疑問を解消しこころにわだかまりの無い境地を体得した。作礼して無心の銘とい うものを褒め讃えて述べた、曰く (省略)

和尚また弟子に告げて曰く、諸々の般若のうちで無心般若が最上である。 頌をつくって曰く(省略)つまり無心というは妄想なしとの義である。

心木石の如し

木石それ自身は意思を持ちません、我を立てず心身脱落の境地に似ていてそれは非人情なところもあります。人間なので 人情は有りますが人情

で動かない世界があり、そこから見る事を知らねば心非心もわからず身脱落ということもわかりま せん。支那の徳山という坊さんがいて曰く「心に事な

かれ 事に心なかれ」ボンヤリ事に当たれと言うのでなく、結果に 計らいを持ちこまず無心であれということです。

支那の無心思想

ローマは法律できちんと決める、支那は礼節習慣でいこうとする。差別の世界を非常に喧しく言う。支那に仏教が入って 「無・空」のとらえ方が内向

的に反省的自覚的になってきました。

夢幻か実在か

食物が無ければ生きていけない、抓ったら痛いという生々し世界で無住とか無功徳とは寝言か脚のない幽霊の世界で虚構 にすぎないものではないか

、虚言らしいものを昔から今日まで言い続けているのも可笑しいことです。虚言らしい世界を 取ってしまうとまた淋しいような気がするから妙なものです。

無心にして生きる世界

仏教を了解せんとするにはどうしても直接の世界を見なくてはならない。直接の世界は空間的でなく時間的であるが目の 先に見るように話をするには

空間と時間を合わせ織り入れるのである。極楽を西方にあると空間で言い死んでから行くと 時間的に言う、極楽も地獄も仏教に導く目的で設けられた

方便だとも言えるし、自分がまぎれもなく此処にいるという不 思議さを思うと実在として見えてくるものである。

極楽へ往生すること

百丈和尚にありがたい事とはと尋ねたら 曰く「独座大雄峯」ここにこうやって座っていることこれ程、奇特な大事実は ないだろう。そこでの無心の境地は

生死も無く極楽である。菩薩本人は悟りの世界にいるが衆生を極楽へ往生させる大悲 の為に方便を使う

不死

生と死を対立の世界から見ると紛れもなく息は止まり人は死んだと言うだろうが木石の如く自分は死んでいないのです。 親しい人が死ぬと慟哭するがそこ

に無喜無憂の心が有ることも事実です。そこで感受したものは無心です。