鈴木大拙  

「無心ということ」

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動

第四講 無心の完成    第五講 無心の生活 第六講 無心の体験

結語・・・無心と道・色即是空

第三講 無心の活動

趙州和尚の話

人間は見たように思っても実は知っている範囲でしか見えていないものです。各自が主観の世界を造っておいてその中にかがみこんで生きている

他人との喧嘩はその相違からくるものです。又、知らない物を探すとは大変なことである、それは本質でなく形や用途で語られる事が多いからです。

)灌渓の話

趙州和尚の話と同じです。見えると言うも見えないと言う。和尚応えて曰く、「現象を見ただけで本質を見てないからだ」その本質とはたずねられ

て和尚は誰でもがわかっている常識を応える。納得しがたい問答ではあるが“高僧のゆとり”とでも、大衆の教化には必要なものと弟子に教えたと

も言える。

)無心の活動

根本的無分別の世界になんらかの働きかけがあれば絶対が相対となり無分別が分別の世界に転じます、この二つの世界を行き来するために批判的で

もある働きが生まれる。

無分別の作用

批判とは褒めたり罰したりの意識のあらわれです。絶対の無分別も留まっていれば死人同様です。無分別がそのまま転じてそれを分別して人間が見

るのです、そこがすなわち人間世界です。

浄土と無心

真宗では往生という言葉で「計らい持たない」「無義を義とする」「無碍(さまたげの無い)の一道なり」と言い浄土と穢土とを飛び越します。禅

宗では飛び越しを無心と言うところです。

弥陀の本願

真宗的に言えば衆生が南無阿弥陀仏の一念で助けられるのは弥陀の本願、誓いが動くからです。それが僧礼拝ということになるのです。禅宗的にい

えば衆生が南無と唱えた時それは無心から有心に移ったとの人間の意識の跡から見てのことではあるが弥陀の周りにはすでに本願が成就されており

衆生には本願を得る不思議を根本的に持っている。

往生の決定

弥陀の本願が動いて極楽往生が決定しそこで僧礼拝し南無阿弥陀仏となる。この南無阿弥陀仏は御恩報謝の念が続くことにより繰り返されねばなら

ない。それは恩を報ずるという限定した意図も無く喜びの叫びとしてあらわれるものです。

「菩薩子喫飯来」

金牛という和尚がいました、昼時間になると坊さんが一緒にいる食堂の前におはちを抱えて行って、そこで呵々大笑して踊って曰く「菩薩子喫飯来」

ご飯ができたぞできたぞ、さあさあお上がりお上がりと言うのです、それを二十年も続けたそうです。これは禅宗の坊さんがやることで、真宗の方々

では南無阿弥陀仏の連唱になるのです。禅宗の高僧による導きも弥陀の導きも無心であり受け取るも又無心であるところは、自力も他力も共通である

機根(型)の問題

真宗では大悲の方便として地獄の描写をして布教をしています。情の方面から大悲にすがらんとする感情的に動く人は自然浄土型に寄り集まります。

禅宗のひとは一般に知的傾向を余分に持っています、「これは何だろう」とまず尋ねるようにできています。浄土型の型の人は知的傾向の人を機根

(型)の違いと納得して禅宗の托鉢にも布施をします。日蓮宗が他に交戦的なのは日蓮上人の性格によるものでしょう。性格は漁師の子として生まれ

階級闘争や反抗心が育つ環境のなかで形成されたものでしょう、托鉢僧には門前払いをします。お釈迦様や法然上人はその系統が貴族層に属するとい

うのであまり喧嘩腰に物をいわれないようです。キリスト教はキリストのタイプの方向に向くしマホメット教は軍人的に勇敢で戦闘的な気分に満ちて

おりそういう気風の人が信仰に行くのです。インドではやたら宗教的に喧嘩するのですがマホメット教との争いに元が有ったようです。各宗派の祖師

すなわち開山さんの気分個性が宗風にでてきています。

宗教的体験の根本義

宗教にはいろいろな機根があり差別的に善悪は有りません。入口は「分け入る麓の道は多けれど」畢竟は「同じ高根の月を見るかな

」だと思う。いずれの宗教においても根本的経験は無心ということであってこれを知的、分別的に系統づけて何かと解釈し意味づけ

ようとするときいろいろに変化してくるのです。無心から師家の教え導きにふれて分別の世界で次々と車輪が音を立ててめぐるが如

く限りも無く優れた働きをみせるそれが宗教だと思うのです。