「無心ということ」

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動

第四講 無心の完成    第五講 無心の生活 第六講 無心の体験

結語・・・無心と道・色即是空

 

 第五講 無心の生活 

)無心と本能

火事や台風は火と風の物理的物質的働きである、虎やマムシが人間に害を与えるこれは本能のなせる行為で

ある。共に人間の価値観を標準にして結果に責任を問えるものでは有りません。火や虎に成りきり、木や石

のようになってしまうところに、無心の一端を覗き見るのです。無心の行為は価値の判断を加える事が出来

ないといえる、

 

)幼児と無心

無心が本能に還るというなら赤子の分が優っていることになる。歳をとらず経験も知識積まないでそれぞれ

の境遇に順応してゆくのも困難であり、人生の一大矛盾にあたり何を獲得して何を棄却するかを選択

しなければならない

 

)無心と生活の矛盾

この矛盾が一生の悲劇であり、悩みを受け入れなければいけないように出来ています。食についていえば虎が

人間を食べて満足を得てもなんら矛盾を感じない、人間も身体を育ててゆくについて同様に必要ではあるが、

得る為の消費と生産という社会の仕組みから外れることが出来ません。宗教家と言えどその社会の一員であり

消費に見合う自分であるか自答しなければなりません。

 

)無心の活用

知恵と経験を得て無心より離れるところで人間らしく生きる価値観の世界が展開してきます。しかし無心の世界

への憧れを止める訳にはゆかないものがある。それは生きる本能はもともと無心だからです。悩みは社会の仕組

みと本能あるいは無心が抱える根本の矛盾から来ているのです。その矛盾のところに精神生活の進みゆく道があ

るように思われるのです。

 

)人間的無心と天地の心

本能の無心から出て、人間的有心へ出たが、この有心を今一度無心の世界へかえしてしまわなければならないの

です。本能の無心と有心からかえった無心とは体得しなければならない心は違うが通ずる道がありそれを天地の

心という。天地の心は春になれば花が咲くがの如く生々の力であり、創造でもあるのです。そこにある無心の無

は存在しないの意味ではなく創造的に無限に繰り返す天地の心でもあります。

 

)意識と価値世界の出現

人間的天地の心が一直線に働らか無いのはそこに意識が生ずるからです。反省と批判、喜と憂の

新たな意味の世界が創造せられました。価値世界であり端的に人生なるものであります。そこで

生ずる矛盾を片づけるには容易ではないが無心の世界が体認せられねばなりません。

 

)矛盾のままの無心

無心を仏教では無我という。本能的な「我」や人間的有心いわゆる道徳の世界。義務の世界、宗教の世界等と

いろいろの世界が重なりあって人間特有の世界いわゆる矛盾の世界がそこから展開してくるのである、この矛

盾はどうしても『無我』でないと解決つかぬのである。我を肯定しながら

其処を離れ無我、無心の世界に入るとは、論理的には矛盾である。しかし初めから何も無いところに何かをこ

しらえ上げてきた理解すれば無心はまたきわめて容易なことであります。矛盾のなか神あるいは仏の身心のま

まにと委ねきるこれが無心の境涯と古今の聖者の導きは理解される。