無心ということ」

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動

第四講 無心の完成    第五講 無心の生活 第六講 無心の体験

結語・・・無心と道・色即是空

 

 第六講 無心の体験 

)無心の掴み方

科学では人間として自覚している心の上層を分析できても無自覚の心までは研究の手が届かない。無心の

体験は別の方法によらなければならない。無心を体験できたとしてもその本体を掴んで言葉で表すのは難

しい。

)無心と心意識との関係

五感に六感目(未那識)を足して自我と認識します。自我には有意識(自覚面)と無意識(無自覚面)に分けら

れます。無意識(阿頼耶識/アラヤヴイジュニヤーナ)ではそうとは判らず百鬼夜行的に念が働き自覚面に表れ

妄想(我執)となります。

自我の存在の為にも(未那識)を通して(阿頼耶識)の本質を掴まねばなりません、これが無心の手掛かりです。

 

)無心の無自覚性

有意識と無意識とは表裏一体ですが無意識(無自覚面)(阿頼耶識)に働きをかけるには有意識(自覚面)から

しかできません、働きが有って成り立つ自我は善悪邪正真偽美醜等の価値が無限に入り込む分別の世界です。そ

れで分別を分別し批判して帰する知恵が般若の知恵である般若の知恵により初めて心の有意識(自覚面)から無

意識層(無自覚面)へ貫く転回が可能になるのである

)般若の知恵

無意識面と有意識面の転回の前では分別「我」の世界が心の全部であるが転回という体験が有ってからは、

般若の知恵が光り分別「我」に無分別性のあることがあきらかになる。これを(阿頼耶識)の暗窟に一点の

光明を添えるという

)阿頼耶識と光明

阿頼耶識より発する光明をさえ捕えれば五感や意識で成り立つ有意識の世界は別の展開を見せるのである。

我は光明を持った我となるのである。光明の実態を問題にするのは光明を分別して自分の外に置いているから

で光明を拝みえたら問題は出ぬものである。

)光明・無心・絶対

この光明の世界に飛び込んで光明とひとつに働くのが無心の境地です。この境地に浸り日々過ごす、これを

無心の体得という。昔から聖者を初め宗教者がなんらかの型で光明を説明するが最後の行は疑問体詠嘆的で

る、総じて光明は相対的明暗を超えたに無分別に有り、無分別の世界に無心の世界が実現すると述べている。

)無分別の分別

分別の世界の言葉で無分別という意識の世界を現そうとすればそれは難しく、無心とは分別の無分別、無分別

の分別であるのだから禅家ばかりでなく一般宗教心を持つ者にとっては頭痛鉢巻の種であり知的論争、哲学的弁

証の尽きざる論題である。「用」とは、しなくてはならない事、役に立つ事そのはたらきをするの意味です。「寂」

とは、生死を超越した悟りの境地であり「無心」のことである、「用」は有心です。「用がすなわち寂で、寂が即

ち用だ」用と寂は一体と仏教では説いている。「知にして無知、無知にして知」これが仏教の教えを理解する知

恵であり、無心を知ろうとすればその道理の事情を理解しなければならない。

 

)体験の世界

無心を体得することを禅宗では、見性という。性とはもともと持っているそのものの本質とでも言うべきもの

であるが宗教の世界では、有心即ち妄想の概念ではなく無心即ち体験の概念により知覚するものである、見性と

いう矛盾的体験が成仏とは如何にと問われて天台山雲居智禅師曰く、性は即仏なり、仏は即性なり故に見性を成

仏という

 

)神秘的直観、直覚に非

直観(ちょっかん)とは、推論など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式であり

無心の体験をそのように表すことが多いが実際はそう見てはならないのである。直観は無分別とは異質のものです。

仏語で言語道断とは奥深い真理は言葉で表現できないの意です、見性体験を概念的に言い尽くそうとすれば

まさにそれです。

)呵呵大笑

あなたは誰とたずねられたら、私はあなたよと答える、それは私だと言えば、ええ私は私ですとすまして応える

たずねたひとは呵呵大笑する。この笑いの意味を知的に解釈しようとすればいつも悲風のなかを歩む

気がする

)東洋的心理

行動を心の働きから分析し解明しようとするのが心理学とでもいうべきものである、仏教の本領は

心理学なのだが形而上学的なので心そのものから究めていかねばならない。この心理は東洋的で

り仏教独特でもあります。

 

結語

 無心と道 …………  色即是空

支那にはむかしから「道」という文字があった。原理とか根本とか帰宗とかいう意味に使われた。儒道、仏道

という熟語にでも使われている。仏教が支那にはいって、これが人生の指導原理として受け入れられるように

なった時、この仏教と従来の「道」の考えとどの点で一致し、または相違するかが問われた。

仏とは「即心即仏」で心を悟れば仏がわかる、悟れば今まで有心と思っていたのが元来無心だとわかる。

「即無心即仏」である。なら「道」とは何かそれは「無心是道」または「道本無心」である。無心を悟れば

そこに自ら「道」があらわれる。故に「道即是仏」「仏即是道」でいずれも究極畢竟のところ無心である

「道は」仏教生活の根本義である。

草木瓦礫を見聞覚知しながらその世界で、それを空無にせよと言うのではない、その世界に対していて取捨愛憎

の心の動かぬところに覚めなくてはならぬ。そんな所が別に有ると言わず不即不離だと会得しなければならぬ。

この会得が仏の覚であり、われらの悟りである。

道とか、仏とか、無心とか、無分別とか、矛盾の同一性とか、平地に大波乱を起こすには誰か、「在るがまま

動くがまま」の「まま、如是」の世界にどうしてままならぬものがあるのか、心もなく道も無ければ、なにゆえ

に賢愚を分けるのか、生仏の差異があるか、無分別界に分別の世界が可能か等、同じ様な事がいつも繰り返され

るのであるが、これは人間意識の始まりから問題で人間ある限り存続するところのものである。これらの問は

分別智上からでるのであるが、これに解決を与えるものは、無分別智のなかから出るもので般若の知恵と

いうものであり、仏の教えにあるものです。