鈴木大拙  

「無心ということ」平成19年9月25日初版発行

東本願寺同心会での講演の筆記をもとに補足して執筆したものです。

第一講 無心とはなにか  第二講 無心の探究 第三講 無心の活動

第四講 無心の完成    第五講 無心の生活 第六講 無心の体験

結語・・・無心と道・色即是空

第一講 無心とはなにか

無心の意味

無心というのはどういう意味に使うのか

俗にいわれる無心の意味

*夢中になって我を忘れる*金を借りる*子供は無心である

儒教では 

*常に無欲にして万物の妙を見る

大拙が定義する無心とは

常識や論理が無意味で無価値の境にある心

)無心の表現

心の意図なき処に働きが見える

)宗教生活としての受動性

綺麗とか雲もなくからりとして何もないことを空といい、内に何かが有れば入ってくるものに

抵抗し塞がる。受動性に欠け絶対的包摂性という宗教的生涯を全うできない。しかし空たらん

とすればまた空にとらわれ空でなくなるので空ではなく無心でなければならない。

え)宗教の極致

無心を宗教生活の極致とし受動性が宗教体験のすべてである。ひたすら信じ論理を離れ分別を

超越した境涯を意味します。

)大拙が思う宗教とは

自分がいて他人がいるという分別の世界を突き抜けて分別なしの世界をいう。

宗教者はこの超越した世界に飛び込んだ瞬間に自分を完全にしたといってよい

これが「非思量」の世界です。

)浄土のありか

宗教者の直覚経験上の境地から見た浄土のありかを“分別の意識の世界に通ずる言葉“であらわ

すと西方十万億土となってしまう。分別を離れた宗教者には一寸先東西南北どこにでもそこが浄

土なのですがそれじゃ物足りない、そこで祖師方はいろいろ力を尽くして教えになるのですが分

別の世界に住む者にはわかりにくいのです。

)浄土の内容

浄土とは生理的(痛い熱い)・心理的(喜怒哀楽)・道徳的(善悪)を超越した無分別の世

界です。極めて有耶無耶な世界だが一度そこに入ったら己の欲するところのままに生きら

れる。そこは分別のないところだが喧嘩もせず則を超える間違いは起きようのないところです。

)不可思議の妙味

浄土の内容からして宗教はいかにも不可思議千万なところでそれだけに尽きざる妙味が湧いて

くるのです。この不思議を良いか悪いかと決めるものではなく、ただ気をつけなければいけな

いものです、故に教えがありお寺があるのです。

)無限の開展と永遠の願い

無限とは空間の広がりでなく、さきへさきへと時間的に開けてゆくことです。人間の世界は無限

の規則で流れています。規則を体得した者の願いは永遠の祈りとなり完結せずに創造的に発展し

てゆくものです

)十万億土

十万億土を経て極楽に行くという宗教体験を説くものは、十万億土に行ったと思ったらそれが

んなに遠いところでなくして今ここにこうしている自分の居処がすなわちそこであったと知る者

である十万億土といえど無限の時間の中では刹那でしかなく極楽は永遠の今の中にあるものです。

)解脱と自由

 き)で言うところ無分別の世界は宗教の終局の目的でこれを解脱と言います。分別のから単に

離れるだけで自由を求める自主的な働きがなくては死んだと同じです。すなわち解脱とは自由を

得るための目的である。

)無心の境地

無分別、無価値、の世界に飛び込むと無心の境地を得る。そこは円融自在にして事々無碍の受動

性の型であり宗教の極致とも言うものです。その極致に達した人のこと柔軟心得た人とも言う

)最後心の見方

分別の世界の最後は真理、倫理には善、芸術には美、ならば宗教は聖なのかそれは違う。宗教的

生涯の最後心とは真、善、美、聖をあるがままにして飛び超える無心である

)飛躍横超

分別間を縮めても無心とはならず、飛躍横超いわゆるその間を飛びこえてこそ無心となれるのです

対立の世界を非常な束縛と苦しむと業という考えを有するに至ります。なお増す苦しみの極みに

思わぬ力が出て飛べぬと考えていたところを飛べるのです。

)大安楽境

分別の世界で積み上げた概念を一機に根本から転覆させることは決して楽なことでは有りません。

苦しみを痛切に感ずる人がやらなければないことは飛躍横超の経験です。 やってしまえばあと

は大安楽です、この境地を「無心の境地」という。