等伯    安部龍太郎

長谷川 等伯(信春)1539~1610

※七尾城城主畠山氏の家臣奥村家の子として生まれる。

染色業を営む長谷川宗清の養子となる長じて娘の静子

と結婚し一子、久蔵を儲ける。無分は宗清の父、

※七尾出奔のいきさつ

城主畠山義続は重臣七人衆に城を奪われ、奥村家の長子

武之丞は再興を画策し信春を利用する。

信春の留守に七人衆の手の者が押し入る、宗清夫妻はそ

の場で自害する。

詮議のすえ所払いとなる、長寿寺での義父母の葬儀にも

参列を許されず家督は伯父宗高が継いだ。

妻子共々京を目指す旅に出る

※京への道中

羽咋から船で敦賀の予定だったが羽咋で静子が病に伏せ、

路銀が尽きるも医師が旅籠の襖絵を高く評価し支払う。

敦賀に妻子をおいて京への途中、比叡山から逃れる一群

の中の子連れの前田玄以を助けた事により織田軍から身を

隠さなければならなくなる

京では路頭に迷っていた。扇屋に拾われ住み込むもただ

同然で働かされる。

堺の妙国寺に妻子ともささやかな平安の日々を過ごした。

安土宗論のあおりを受けて寺を脱出しなければならなくな

った。病気の静子を七尾につれ帰ろうとして途中で死なせて

しまった。

※対決

長谷川信春(等伯)が2度目の上洛をはたしたのは14年

ぶりで信長軍の目を恐れず自由に活動できるようになって

いた。

偶然に扇屋と再会して店を継いで欲しいと頼まれ屋号を能

登屋として開店することになる。評判がよく繁盛して職人

も増える。

十数年前石山本願寺で教如の肖像を描いていたころ狩野松栄

は狩野派高弟同様に扱い門外不出とされる襖絵の下絵まで

見せてくれた、信春にとって恩義があり師匠と目していた。

今は隠居の身だが尋ねて来て、聚楽第の襖絵を手伝って欲し

いと相談にみえた。

狩野派総帥永徳は対面して腕前を見たいので何か描いてみせろ

と言うので信春は同様に描いて優劣を競うなら描きましょう

と対決を申し出る。陽と陰、動と静の極致で引き分けとなる。

永徳より久蔵を弟子にして仕込んでみたいと申し出が有り本

人の希望で受けて店を出ることになる。

堺の豪商油屋に身を寄せていた時に気遣いをしてくれた出戻

りの娘、清子が店を手伝い切り盛りをしていたが信春と結婚

することになった。

※大徳寺三門

信春が大徳寺の春屋宗園に師事して禅を学んで2年経ったころ。

信長公菩提所であり七回忌に当たり三門の造営がはじまる、

利休が寄進するのを秀吉が了解する。三成が狩野派を推薦する。

信春が宗園に任せて欲しいと頼むと「ありのままの自分を見る

には」と一喝されてしまう。答えが解けたうれしさに秀吉が贈

った三玄院の桐紋が刷り込まれた襖に絵を描いてしまった。

鶴松様の誕生祝いに描かせたと不問に付し、壁画の作成を任さ

れた。

帰って来た久蔵と一緒に加わった狩野派の若手もふくめ17人で

長谷川派の旗揚げにふさわしい仕事ぶりであった。

宗園からの号を貰い、蟠龍図のかたわらに等白51歳と署名した。

※永徳死す

京都所司代前田玄以より仙洞御所の対の屋造営奉行となった、

ついては襖絵を描いてくれないかとの話が有った。

朝廷の内情を知る為に三条西家に嫁いだ畠山元城主の娘、夕姫

に助言を乞うの文をだす。

兄の奥村武之丞の案内にて夕姫と合う、根回しに300両が要る

と連絡がある。後300両の追加無心があるも用立てる。

前田玄以より朝廷より任せると連絡があり準備に取り掛かる。

建造中止の知らせが入り後に、狩野永徳に変更発注される。

収まりがつかない等白は永徳邸に入り話し合うも半死の状態で帰

される、1か月後に永徳が死ぬ

※利休と鶴松

鶴松誕生で淀殿派の三成の勢力が強くなった。朝鮮での戦は戦果

も見られず幕臣との対立が激しくなってきた、三成は力の誇示の

ため秀吉の側近の利休を貶める策謀を為した。大徳寺三門に利休

の木像を安置したと秀吉の怒りを煽り死罪磔とした。利休は全て

の責めを負ったおかげで、大徳寺に関わりのある多くの者が救わ

れた。利休は等白に「死んだ者を背負ったままそこに向っていけ」

と言うなり白の字に人偏を加えた、この遺訓に従い以後等伯と名

乗るようになった。

鶴松3歳で死す、利休の祟りの風聞あり三成の力衰える、供養のた

め祥雲寺建立し、利休事件に関わりの有る等伯に画の発注が有った。

久蔵は習った狩野派の殻を超え、出来ばえを秀吉に褒められる。

方丈の後も大仏殿、大庫裏客間(猿猴図)等次々に建てられ長谷川

派配下の職人は200人を超える所帯となった。

肥前の名護屋城の障壁画は狩野永徳の長男光信が請け負い秀吉の

指示で本丸御殿の絵だけ久蔵にまかされた、狩野派は面目を失った。

合間に帰った久蔵と等伯は静子の遺骨を納めるべく七尾に旅する。

羽咋の正覚寺に納めた十二天像等伯26歳画を久蔵に見せる。

長谷川家を訪ねる、伯父宗高は冷ややかな態度だったが、絵仏師

の家業を継いだ宗冬が3人の息子を連れて宿にきて共に食しわだか

まりを解く。宗冬は等誉と改名したいと申しでる。息子宗宅を弟子

に預かる。青柏祭の席に城主前田安勝より招待される、

朝もやの中の松林に追い求めている山水図を見るがそれを描ききれ

ないと未熟を思う。

久蔵を名護屋城に送り等伯は大徳寺三玄院春屋宗園のもとで禅の修行

に励むことにした。

今は一介の僧となった、過去には太守とあがめられていた畠山修理太

夫より娘夕姫の死と真相を聞く。

不吉な夢見のあと、久蔵が仕事中に足場が崩れ死亡の知らせが入る。

等伯は単身で宗光の妾宅へ行き真相は裏狩野の仕業で切れた綱は二の

丸の物置にあると白状させる。

大徳寺の天瑞寺大政所仲の一周忌の法要に等伯も障壁画の説明役とし

て参列していた。

懐に忍ばせた訴状を出し直訴するも秀吉の逆鱗に触れる、近衛前久の

が取り成す、期限は来年の夏、伏見城完成の酒宴の席で絵かあるいは

絵描きの首を引き出に致すと秀吉は言い、近衛前久はこれまで誰も見

たことが無い絵を描けと言う。

等白は翌日から命をかけた1枚の絵に挑むことになった。

画題は七尾の海の霧に包まれた情景の山水図である。

描けなかったらここからでないと本法寺にこもるも絵筆が進まず日だ

けが過ぎる。残る日数はあと半月だと日通が告げたが等白は時間の感

覚から無縁の境地に入っていた。寒風に吹きさらされた浜辺の松は遠ざ

かるにつれて気嵐の中に消えていく。それは死んだ者や失意の者たち

が黄泉の国に向う姿のようだった。背中を押されたような気がして勤

行を中座してまず中心に有る雪山を描いてみた、それから三日三晩絵

を描き続け、完成と同時に気を失った。

六曲一双横十一尺の屏風を立てると霧におおわれた松林が忽然と姿を

現した。戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた秀吉はじめとす

る武将達が松林図に心洗われ宴席にすすり泣きの声が上った。

秀吉は歩み寄り、久蔵の一件も忘れておらぬと手ずから杯を渡した。

等伯はもはや訴状のことは忘れていた。松林図を描けたことが、久蔵

への何よりの供養だった。

慶長10年(1605)朝廷から法眼に叙され名実ともに天下一の絵師に

なった。

徳川家康に招かれ江戸に向おうとしていた、御用絵師の座を望んでい

るわけではないが子供達と一門のために一応の道筋をつけてやりたい

と思ったからだった。

途中病を得て到着間もなくにして波乱の生涯を閉じた、等伯72歳